水俣病でも同じ事やっていたでしょ。どんなに被害者が苦しんでも、水銀排水を水俣川に流し続けた。たくさんの被害者が苦しんで死んだんでしょ。環境省は、国は被害を否定する。市長が、チッソ工場長を兼務していたとか。今もチッソ、チッソと言っているからね。恐ろしい社会の人間模様を見たやないか。誰も水銀被害を言葉に出来なかった。ウイルス説とか、米軍の爆弾とか、その人の持病でしょ、とな。
とくに差別が酷かったと聞いている。タブー、禁忌、言ってはならないとする。由良町の弾圧政策も共通するなぁ。少し離れた門前地区や里地区でも、みんな知っていたんやで。「煩いんやとう」と言って顔をしかめる。その内に自分たちの地域にも被害感に苦しむ者が出始める。私が低周波被害を役場で言ったら、もう大変なお祭り騒ぎよ。心理コントロールはあっただろう。それ以上に私一人に対する敵意がスゴイ。
この時はまだ家柄自慢もしなかった。ただの2haの田畑を耕すだけの一人暮らしの変わり者。世間との付き合いはあまりないから、いいように悪口言われている。変わり者よう。みんなの嫌われ者だよ、と大騒ぎを聞く。その内に、環境運動家やインターネットを通じて「オマエは同和やろ」と何度も言ってくる。水俣市の差別作戦とダブっていた。蔑視するんだ。だから他の人は、自分の被害の事は言わない。
貶められては敵わない。「被害を訴える者は〇〇だ」となる。環境省の報告書にも同じ記述があるでしょ。身体障害者だとかな。低周波被害者になると精神に影響する。性格が変化することは東伊豆町の風力事件の時に分かっていた。海外の被害情報にも精神的なパニックが書かれている。もちろん由良町では、ヘンになった人を指して笑いものにする。アホよら、とな。ご自分も異様な精神状態にありながら、被害者のことはボロクソだ。
優越感に舞い上がる。同じ地域に住みながら、人の不幸が面白い。原因だって❓ 何でもいいんだよ。被害がある。被害はない。どっちでもいいけどアイツが死んだら嬉しい。これは被害者に共通する心理だ。最初にその言葉を聞いた時には驚いたもんだけど、段々と私もそうなっている。「早く死なねーかな」そんな言葉を聞いたものさ。「考える会」という檻に閉じ込めてさ、囚人の管理をするんやで。
被害者たちはまるで魔法にかかったようにして死んでいく。家族の者はホッとして喜ぶ。「知らんかった」と言っている。そんなはずないわな。町全体がウソの作り話に凝り固まっている。いや、真実の被害は知っているんだよ。それよりも役場の悪意とか、被害者の悲惨な末路が面白いんだよ。たとえ自分が低周波被害に苦しんでいてもな。由良町の山々に林立する21本の風力発電の麓には、100人以上の被害者が苦しんでいる。
畑地区だけで60人いることが確認されている。北側の三尾川地区や広川町にも被害者が多数いる。たまに苦しさをこぼして泣いていたりする。早く死ぬんだよ。どうせ証拠はない。その人の責任だ。地域として、町全体が水俣病の再現になっているのだ。せっかく和歌山市に汐見文隆医師がいて忠告してくれたんだけどな。たくさんの冊子にして配ってくれたから、手に取ってみた人もいるだろうに。
私の時は、その本を見せるだけで奇声を上げて逃げて行った。よっぽど恐ろしかったんだろう。被害を訴える者はアカン、逃げたらいいんや、と共通認識がある。ワシらには関係ないやろ。アホよら。ワシらは役場やで。町民は皆嬉しそうだ。全国どこでも同じでしょ。自然エネルギーだからいいじゃないか。被害を分かりながら受容義務を謳い上げる。反抗する者は一人もない。私一人なのだった。無視。嫌悪。蔑視。
みんなのお楽しみさ。その上に「私たちは土砂崩れが心配です」とくる。海岸や海に風車を建てましょうということだ。貧しい地域だからね。少しでも小金がもらえればよい。乞食根性を笑いあうのだ。何でもいいやないか。どうせ誰もいなくなる。役場様サマよ。今となっては私の抗議活動は笑い話にもならないほど古びてしまっている。転落した顛末を人々が喜んで見ている。あんなになりたくない。
みんなと一緒。畑地区はみんなじゃないんだ。「被害はない」、「被害など聞いたこともない」と言ってるで。ウソついていたんやとう。口を突いて出てくるのは奴隷言葉の連続だ。日本だけ、「Stop wind turbines !」(風力発電を止めろ)の言葉がない。世界でもまれに見る特異な現象だ。土砂崩れが心配なんだって。笑うしかないわな。




