いつもの写真と情報が舞い込んだ。海南市側から入って、有田川町まで街道を走ってみて。言われたとおりにルートをたどると、以前あった風力の看板が幟旗になっていたり、新しいデザインになっていた。百姓がいたので聞いて見た。「ワシらは絶対に反対だ。アンタどこから来たんや?」、「由良町です」フンフンと値踏みするように私を見ていたかな。
近隣では有名な名所になっていて、いろんな環境運動家が偵察に来るんだろう。なんせ南隣の有田川町では「私たちは土砂崩れが心配なだけなんです。学者が来て・」と判で押したような全国版のスローガンを繰り返している。有田平野では一様にタブー視されていて、「風力」と言ったら返事はない。巷から聞こえてくる言葉は、【本当は土砂崩れなんやで】という言葉のすり替え・心理トリックだ。
有田川町と日高川町、その方面の山々を見渡すと、大きな風車群が覆い尽くしている。つまりな、彼らは風力に繋がれた奴隷と化していた。私は以前からこのページで伝えていた「有田川町の風力反対」という題目も、じつはトンデモナイ錯誤であったと気が付いている。善と悪、社会模様、人間の種類が違うのだ。一つの風景として、旧下津町大窪地区へ行くと、こんな看板は一つもない。
あれだけ怖ろしい低周波被害に苦しんだ地域なのに人々は笑っている。添付の看板がある道路は、北隣の海南市系の谷に広がる別な人々だと分かる。同じミカン百姓でもこんなに違うんや。意識が違う。人間としての意思を見るのだ。風力の地域対策の成果もあろう。弾圧すると、人は動物になる。由良町で見たとおりだ。
それと海南市の石油コンビナート(丸善)は廃業となり、海南発電所も既になく、マリーナシティのレジャーランドも人影がない。よくもカジノにならなくてよかったのだ。更地になった埋め立て地の寂しさを見る。公害はもう御免だ。人を殺してまで工業制作する意味はない。山奥の蜜柑畑では、百姓たちがせっせと野良仕事に励んでいた。今はこちらが正解だ。カネじゃない。
人としての生活が大事だ。大窪地区との意識差を見る。有田平野とか、由良町とか、この風力反対の看板見たら何を感じるだろうか。何も分からないんだよ。アホよら。関係ない。カラッポな頭、空疎な世間話に支配された奴隷を見る。まるでアメリカのインデアン、インディオやで。オーストリアのアボリジニとか。支配されて迫害されるとどういうことになるのか、社会心理学では明らかだ。
風力被害は、全国でたくさんの人が苦しみながら亡くなったんでしょ。因果関係はないとして笑いものよ。由良町の人にこの看板を見せても、風力反対の運動を聞かせても、まったく何も反応はない。魂が抜かれてしまっている。見事な洗脳だよ。「言ってはならない」、「オマエだけや」、と決められたセリフとせせら笑い。風力発電の被害も、究極、ここまで成果を見せている。
もう何でもできるんやで。原発でも風力でも、メガソーラーでも、何でも来いや。早く海岸や海に風車の建設を待っている。なにか素晴らしい未来があるような、原発音頭を踊っていた時のような渇望があふれている。破壊的やな。人間がだよ。「社会が破壊されるんやで」と言われてきたけれど、まったく誰にも理解されないままに転落していく。各地でやっているペテンのエセ反対を見ろよ。
土砂災害がどうしたってか。よくもそんなアホ話に沸いているな、誰も反感がない所が恐ろしい。私はもう近寄らない。私は嫌悪の的にされているから。出来ればこの看板の発案者に、大窪地区などの近隣の被害者に影響を与えてほしいと思う。私の母の実家は有田のミカン農家でね、彼らのことがよく分かるのさ。たまに賢い人がいるらしい。
日本一のミカンの生産を見たら、風力の嘘八百も発信しようやないか。看板倒れ、ともいう。答えは初めからあるんだから、全国に風力発電の被害を発信しようぜい。県や役場、政治のウソに負けたらあかんで。




