風力発電の被害は、なぜこれほど無関心なのか。

風力反対と主張しながら、書きながら、アサッテの話にすり替えるペテンのエセ反対がある。目的は私のような被害者の否定だ。由良町でも、どこでもやっているから、特に珍しくもないけれど、そんな環境運動会にはきれいな写真や動画が目を引くのだ。プロの編集やな、とすぐに気が付く。耳触りの良い環境用語を使うからね、まるで「委託業務」そのままやな、と感心している。私だってダムや発電所周りの公園設計をしていた。

環境屋の真似事よ。土木設計には、計画段階からワークショップなどを使った住民参加型のシナリオが用意されている。何回やっても許可の下りない整備計画もあったけどな。それで経験上、仕組まれた環境運動が分かるんだよ。風力発電そのものが、地球環境とか、温暖化防止のキャンペーンでしょ。反対する理由がな、じつにバラエティに富んでいる。と云うか、いろんな意見を出し合って、被害を薄めてしまうのだ。

大勢でやられると、少数の被害者は孤立してまごついてしまう。低周波被害は説明が難しいから・、ウソついている、私たちには分からない、どんなに悪いんよ? とボロクソさ。由良町では近所の人からもアホにされて笑われる。社会操作がある。人物破壊とか。でもな、世界的に同じ被害症状が確認されているんだから、世界の風力反対は、今や隠しようはないんだから、隣近所の虐待は奇妙に臭い立つのだ。

田舎は人間関係が濃い。自分の家と、他の家、兄弟の事、学歴とか、大手企業に勤めているとか、役場とかさ。妬みや恨みが積み重なっている。それに対して風力の被害と、その否定・弾圧政策がある。当事者にとってみれば、別の所に思惑があったりする。需要と供給だ。住民支配に、上手く取り入れられている。全国の風力地域はそれぞれに文化が違う。四国なんか特殊だとよく聞く。九州もな、北海道だってバカらしくなる。

秋田や山形のアホらしさとか。いや、やはり由良町の残酷物語やな。議員が、役場が手を叩いて踊って喜んで見せた。大なり小なり、どこでも同じ狂い様でしょ。それを見たのは私一人じゃない。関心のある人は町内の有線テレビで、低周波被害が否定される29回のドラマを見ている。私に対する汚いヤジを聞いただろう。やがてその風力被害の否定は、町中で囁かれる。【被害などないっ】、「風力の被害など聞いたこともない」、と私の被害妄想を笑うのだった。

憎しみを煽る。私への悪口が面白い。非常に詳しく解説して聞かされる。私のこれまでの人生が、これほど関心を持って語られるとはな。畑地区の人から怒られて追い出されたんでしょ、風力裁判で罰金刑で笑われているんでしょ、とな。まるで見てきたように教えてくれる。面白かったよ。腹が立ったけど、カネ払っただけの楽しみはあった。授業料やね。単に風力発電の被害かと思ったら、そこには異常な狂気が行き渡っていた。

「ほっとけ、相手になったらアカン」親父の言葉が今になって身に沁みる。親の言うことにアダはない。たぶん他の人でも経験則として、風力被害に触れることは危険だ、と分かっていたのだ。ほっとけばよい。どうせ〇〇だ。差別言葉が溢れ出る。私が旧家のボンだから、なおさらだったんだろう。明治時代に、由良守應の世話になったからと顕彰碑まで建てたのは畑地区の人だった。私はその除幕引きをした。

あれから60年が経つ。感謝もナニも、アホラシの一言に終わる。たくさんの人が世話になったと聞いている。そのお返しだ。個人の恨みだけでこんなになる。きっと、他の被害地域でも、掘り下げて考えてみると、いかに風力の弾圧が、それぞれの事情に補完的であることか。待ってました、ということだ。被害を喜んでいるんだから目も当てられない。誰も手が付けられない理由がな、地域社会の歴史だったのかい。

それにしても日本だけがなぜ風力被害に言葉がないんだろう。心理トリックにしても、いつかは呪いが溶けるだろうにな。風力裁判を見たら、もう後戻りはないか。テロリズムやな。環境テロ、いやいや、日本人社会の転落よ。死んでも分かるまい。暴力が荒れ狂う。