風力の、作り話が現実になる。

風力発電の被害は、被害歴13年にもなると、町の姿がすっかり異世界になっていることを実感する。当初の被害者たちの苦しみや死に対して、これが現実だ。人々が自らの手で選択した結果だ。私に対して「出て行けっ」とあちこちで叫ばれた。そんなにヒステリックに狂わんでも、と思ったけれど、今となっては彼らの選択は100%確実だった。低周波被害はあっても「ない」。黙っていたら分からんことだ。

死んだらもう証拠もない。誰の責任でもない。自然死だよ。多少の笑いものにして苦しめてやったかな。「アホよら、関係ないっ」とな。必死になって助けを求めていたけど、どの地域でも何も言わなくなってしまった。死んだり、老後施設に行ったり、ロボットになったんだろうね。東伊豆町の風力被害は有名だけど、「被害はありません」と確立している。見事やな。

真実は、被害者がいて苦しんでいるやろうに、あれだけの人口や人材がいながら、言葉の一つも紡ぎだせないのだった。電話して聞いてみたら面白い。由良町と全く同じ言葉を聞く。作り物の世界。特殊な日本社会の仕組みを見るのだった。日本だけ、なぜ誰も風力被害を訴えられないのか。環境運動の皮を被った弾圧じゃないか。野鳥の会、考える会、同じ言葉を操って被害者を否定する。

風力発電の一環として、地域対策として機能していることは見たら分かるじゃないか。誰も思考能力はないのかい。インターネットはしないのかい。いや、批判精神のないことに、奴隷かい、と思うのだ。これまで水俣病や福島の原発事故を見て、悲惨な地域よ、と見たもんだけど、由良町の風力被害もな、超現実的やで。それが日本国全体の有様でしょ。

秋田も山形もない、どの被害地域へ行っても、「被害はありません」と扱いている。人としての矜持はないんかい。人間の尊厳はどうしてくれる。真面目に聞いていたら腹の立つことばかりよ。由良町の人とまったく同じこと言っている。完璧な洗脳が完成している。風力被害が現実だ。受容義務がある。リスクとして受け入れなければならない。気のせい、ということもある。

その割に被害者に対する敵視、蔑視、嘲笑いの恐ろしさよ。由良町なら畑地区の人への差別が明らかになる。ほくそ笑む。私だって風力裁判されたからね、その人らの泥沼の悪臭を嗅がされた。ボロクソやな。差別とはこんなにも香しい。触れてはならないタブーを見たよ。人間、って悪いわな。パレスチナとイスラエルの戦争みたいに、誰にも手が付けられない。誰のセイでもない、そう言う地域なのだ。

私が世間知らずのボンであった。何もかも理由がある。人口5000人の由良町で、全員が風力被害を否定する。被害者たちもな、それ様の演出なんやで。「風力はワシらのもんや、オマエラ関係ないっ」と言っている。「ワシらは面白うてならんのや」と喜びの声を聴かされる。13年間も同じ言葉を聞かされるとな、たぶん言っている連中も、精神的な確立を見ているだろう。

私だって、こりゃダメだ、と尻尾をまいて逃げているから。みんな幸せなのさ。由良守生という敵がハッキリしている。なんと日本でも風力反対を言うのは私一人だ。ウソ付きはいくらでもいるけどな。「土砂崩れが心配です」と繰り返す。風車と人間と、どちらが大事なのかと奇妙な論理に喜んでいるのだ。ペテンよな。由良町の周辺は、かつて原発計画が3か所もあった特殊地域だ。

その裏返し、と言えるかもしれないね。人々が貧しいんだよ。アホが透け通って見える。インバウンドの外人は、簡単に日本人のアホさを見抜くだろう。いい人ばかりじゃない、悪い奴はいくらでもいる。国際政治の供物にされているんだろう。「王様、さぁ、どうぞ」と史記列伝には書いてある。我々日本人は風力の奴隷として売られたんやで。言葉を奪われてな。反抗する日本人はおらんのかい。私一人なんか。