精神論となった風力被害

由良町の風力発電被害を見ていると、もう何を言っても説明しても、話が通じないことが確定している。アホにされることよ。h23年11月、親父に話すと「ほっとけ、相手になったらアカン」と結論だけを聞かされる。もしあの時、そこそこに知らん顔決め込んでいたら、もっと楽な人生があったかもしれん。無事の人、何事もなく、静かに百姓仕事をしながら暮らしを立てる。それが我家の理想だった。

私は出来が悪くて、周囲からよく怒られてきた。もう世間に迷惑かけるのは止めようと思っていた。それでもあえて風力被害に声を上げる。何度も、もう止めた、と思ったさ。ボロクソな弾圧があったからね。被害者たちの裏切り、汚い言葉で罵られる。その罵声の嵐で、これまでの罪が少しでも洗われる気がした。笑われついでだ、何が悪いのか聞かせてもらおう。懲罰議会では、もともとが新聞記者の作り話だ。

発言時間3分とか、5分とか、聞いたことのない弾劾になっていた。町長や職員、議員がすべて出て行った議場に一人、取り残される。圧巻、魔法の世界を見た。どれだけみんなに迷惑をかけるんや、とな。町民は大喜びよ。アホにしまくりよ。彼らの正体をこれでもかと見た。いいもの見せられたもんよ。彼らは何が嬉しかったんだろう。被害者の死を喜ぶのと、同じ心理を見透かしていた。私の住む門前地区がやはり酷かった。

私は旧家のボンで、初めて人々の憎しみを目の当たりにする。へーえ、そうなんや。親父から聞いていた通り、反りが合うことはない。私に対する反感、というよりはもっと根深い歴史、社会的な拒否を見せられる。風力の低周波音に苦しむ人は他にもいた。すべて簡単に否定するのだった。「ワシらは何でもいいのや」ヘッ、と吐き捨てる。和歌山市の汐見文隆医師から渡された冊子を配っていたけど、効果もおかげもなかった。

h19年に、由良町阿戸地区で汐見先生の講演会があった。反発だけを聞く。全国、どこでも「低周波被害者の会」の汐見・窪田さんは追放されていた。クソミソよ。悪口を聞いた人もいるでしょう。私は神かと思ったよ。「この被害をなぜ認めないっ」と先生はこぶしを振り上げて怒る。汐見教が懐かしい。結局、私では荷が重すぎた。人々の悪意や憎しみが、とてもじゃないが対応できなかったのだ。

風力議会も、風力裁判も、私一人を弾圧するイベントに終わった。よくも生きてこられたものさ。たくさんの風力被害者が苦しみながら死んでいく。私も重症の被害者だから、いつ死んでもおかしくはない。私の反発心が、ここまで生かしてくれたと思いたい。人々は家畜のようにひれ伏している。牛のように、モーモー、と鳴くだけか。メーメーとか、ヒツジじゃあるまいに。海外の風力反対を見るにつけ、日本人だけ、なぜこんなにアホなんや、と思う。

善悪の基準はないんかい。由良町の周辺に林立する風車の周りには、被害者がいて苦しんでいる。タブー、アホよら、せせら笑いに喜ぶだけ。ペテンのエセ反対では「土砂崩れが心配です」と繰り返している。アホもここまで来ると恐怖になる。私一人が由良町で風力被害を発信する。もう誰も関心も興味もない。風車の麓には新築の住宅が立ち並ぶ。被害など聞いたこともない。そうかな。面白いじゃないか。

いつか見た風景よ。公害とは、被害者とは、こんな風にして風化させる。かな。いやいや、水俣病やイタイイタイ病の現地を見ろよ。それと同じことやで。哀れな人らよ。心の病気やね。