権力による社会支配を見よ。

「protest wind farm」と検索すると、世界の風力反対デモがドッサリと出てくる。ドイツ語やフランス語で検索しても、それぞれ全国的に烈しい風力拒否の光景がある。それもな、情報操作していて、日本のインターネット、検索と同じ具合に風力キャンペーンに覆われている。それらのペテンのバリアを掻い潜っての、各地の風力記事を見つけるのだ。あまりにたくさんあるから簡単に出てくる。

「Kein windpark」とか「Non auxéoliennes」とか、インプットしてみな。ポルトガル語でもスペイン語でもいいい。そしたら南米のインジョたちの風力抗議が出てくる。アフリカでもそうだけど、世界中で風力反対・抗議デモが行われている。学者らによる学術的な調査・研究もたくさんあるんやで。これがまた日本のアホ学者と比べたら面白い。環境省の御用学会、日本騒音制御学会の報告書なんか見るとさ、ボロボロやで。

恥ずかしい、という認識がないんやね。低周波被害者の会の窪田泰さんと話した時、騒音学会の有名な学者と話して、段々と狂っていく様子に気が付いたと言っていた。目つきがおかしいんだよ、というのだ。私もそう思う。議員、政治家を見ても、そんな狂っていく人を見ないか。よくもこんな奴が政治家やっているな、と。政治や行政に関わってはいけない人が顕著になる。

「さらなる再エネの推進」、「移民は日本の宝物」、要所要所で、正体をさらけ出す。由良町の様な田舎町でも、その弊害は物凄いんやで。あの人は人間じゃない、と被害者は泣きながら叫んでいたで。議員はそれが面白いのさ。アホよらとな。被害者の虐待や否定は由良町だけではない。低周波被害は頭をやられるから、どうにでもなるカエルみたいなものだ。マニュアル化されている。

「考える会」、「野鳥の会」、その地域の人を巻き込んだ洗脳支配が成果を上げている。誰かが反抗してもいいんだけどな。私はそう思っているけど、結果としてそんな奇特な人はいなかった。被害に苦しみ死んだ人の弟に、大学教授がいたけど、相談を持ち掛けたら飛んで逃げていた。何度か酒飲んで話したのにさ、エラそうに、なんやオマエわ、と思ったよ。裏切りもあったと思う。

歴史的に、社会的に、私に対する敵意を持っていたと書いてきたけれど、それは事実としても、人々には「何でもいい」意識が定着していた。役場の言うとおりよ。人の悪口が面白い。人の不幸ほど嬉しいものはない。なんでわざわざ地球温暖化の風力を否定しなければならんのか。国策の論理に立ち向かえない。無理筋やで。被害など関係ない。風力はワシらのもんや、と倒錯する。みんなが一緒に喜んでいる。

被害者がいて苦しんでいるだろうにな。それが内心面白い。私は由良町ではただ一人、風力発電の健康被害を訴えている。もう人々と話す機会もないから、SNS、インターネットで情報を発信する。由良町の人はインターネットをしないから、風力なんか関心がないから、誰もが楽しそうに暮らしている。知ろうという意思が無いのだ。これは被害者たちでも同じことだ。人としての意識を持ちえない。

受け売りの言葉だけで話している。20年前は、農協の選果場で蜜柑を出荷する時、隣になれば何か話をしたものだ。今はまったく何もなく凍り付いた時間がある。それほど私が憎いか。そうか、私のことを知っているんやな、と察しているだけ。触れてはならない会話に、早々に逃げ帰ってくる。笑うがよい。もう罵声を浴びせられるのは御免さ。村八分で結構。キミ等は被害を楽しむがよい。「風力の被害など聞いたこともない」と言うがよい。

井の中の蛙、密閉された特殊空間、ワンダーランドの楽園よ。切れ上がった精神性を見ると、キャー、としか思えんで。由良町だけじゃないんでしょ。社会主義として、日本ではどこにでもあるみんな我慢して支配されている。受容義務よな。家畜化の意味が分かるかい。世界中で拒否される風力被害に、日本だけ、「アホよら」と笑っている。人間としての尊厳はない。鴨葱やな。カネ、支配、破壊、陰謀、悪逆非道を見る。