誰も何も言わなくなった。

由良町のような侘しい田舎町だからさ、毎日百姓仕事してたら誰かと会い話はする。私はその変化を見続けているんだけど、10年も経つと、顔触れが変わっている。年取るのって速いね。年取ったら、時間とともに、少しは賢くなるのかと思ったら、転落しかなかったよ。耄碌する。物忘れの酷いことよ。SNSで投稿しているけど、自分でも間違いの多いことに気が付いている。

書きながら「弁ぜんと欲してすでに言を忘る」(陶淵明)、アレッ、何やったかいな、と思案の繰り返しよ。モノ思うのは私だけだろうか。周囲の人は、風力発電の被害に、なにか思うことはあるんじゃないか。それはないとしても、嘲笑いには十分な意味をくみ取っている。「アホよら」「関係ないっ」と散々言われてきたからね。細長い谷あいの町だから、情報は筒抜けだ。

でも以前のように、田んぼの畔に座って話し込むことはなくなった。百姓が、それぞれに仲良くする仕掛けとして、飲み会のような場が決められていたんだけどな。そんな年寄りはすべて亡くなっている。今は昔、庚申さん、というお祭りがありました、とか。各地区で、細々と続いていたものだった。時代の変化だ。複雑な親類関係も、煩わしさでしかない。意志の疎通はなくなっていた。

人々を操る原理は何だろう❓。隣町や、全国各地で同じセリフを聞くから、行政や政治が主体となっている。職員や議員の悪さよ。風力発電で、こんなにも狂うか。善悪、正邪、人間としての正義感があるだろうにな。あの水俣市でも裏切って、日吉フミコ議員に協力した人がいたと書いてある。これはイカンな、と思う人はいたのだ。小便を掛けたり、石を投げつける人もいたと書いてある。

泣いて怒ったとも、大変な活動をしたのだ。元の木阿弥を見ながら、私にも何が出来るだろうかと住民の様子を窺う。低周波被害者の会の汐見・窪田さんの事例がある。私は彼らを神かと思ったけれど、ほとんどの人はすっかり忘れてしまっている。記録した資料がドッサリあるから、なんで皆さん黙っているのかと思うのだ。海外ならどの国でも賑やかに風力反対・抗議デモをやっている。

日本だけ、そんなものはどこにもない。由良町のようなヒドイ被害地でも、誰一人として言葉を持たないのだ。心理操作、地域対策の成果よ。ディズニーの魔法使いのようにカエルにされてしまう。社会心理学の恐ろしさよ。被害者を笑いものにして喜んでいるんだから、大した支配力なんだよ。私に対する弾圧なんか超過激なスペクタクルだったやないか。すべて嘘の作り話、ヤラセ、安政の大獄やった。

環境運動家の喜びようよ。なにより、地域の人々が大笑いして喜んだ。こんなに満足してくれるんや。「関係ないっ」由良町では誰もが声を上げて歌っていた。私は誰とも話が出来なかった。あーぁ、やってしまったよ。あれから13年が経つ。真実は明らかなのに、懲りないねぇ。結局は、何でもいいんだよ。少し運が悪かった、ぐらいのものだ。風力の騒音や低周波は、今では誰でも知っている。

被害者の事も、そこへ行けば異常な音環境であることが分かるし、異様な人々の様子が伝わる。水俣にも異常な地区があったんでしょ。その感じよ。ワッ、と顔をそむけたくなる。睨みつけられる。私だから、かな。被害を否定する議員が来れば、皆、ヘコヘコして愛想笑いをする。気持ちの悪いことよ。これが彼らの本質だ。幸せなんだよ。風力発電の建設が続いている。希望の星だという。

言葉一つで、いいように操られる。もはや誰も何も言わない。人としての感情も思考もないのだ。被害などない。風力発電が必要だ。キョトンとして、何のことか分からない顔をする。カラッポなんだよ。ロボットでしかない。支配が完成している。被害者でさえ喜んでいるんだもの、各地で待ち望むはずさ。町の発展。地域の活性化。役場って悪いわな。私はまだ生きている。

死んでいったアホな被害者たち。なにか言葉を残せばよかったんだよ。たとえ負けてしまったとしてもな。世界では盛大に風力反対をやっている。日本だけが被害者を弾圧して生贄祭りだ。獄門、さらし首よ。胴体は刀の試し切りに使われたという。日本の伝統芸やな。